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2011年 02月 11日

マラウイ:1997年8月~2000年9月マラウイで考えたこと アフリカ3 Malawi

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マラウイで考えたこと

一匹のねずみが芸を覚えると、他のねずみも自然に芸を覚えるという様な学説がある。どういう事かと言えば、故意に学習しなくても目に見えない何か他の影響で意識しないで学習をしてしてしまう事である。 例として、あるヨーロッパの都市で実験があり、それはジグソーパズルを解くという問題を2つのグループに与え正解率の違いを比較するというものである。金曜日に一方のグループに問題を解かせる、週末に同じジグソーパズルの問題が新聞掲載され次の週の月曜日に隔離してあったもう一方のグループにも問題を解かせる。結果は 月曜に行ったグループの正解率が金曜日のそれよりも高いというのだ。つまり、不特定多数が問題に取り組んだことで、学習され他者に無作為に伝わったという理論である。 偶然だとするには、実際に動物の生態にもあるようである。しかし、この理論の理解には、ねずみの話の前に、記憶という概念も、もう一度考え直さなくてはならない。その説によれば 普通、記憶というのはテープとかディスクの様に、蓄えられた情報と考えがちであるが、むしろ、テレビの受像機(モニター)と考えた方がいいとする考え方である。世の中に不思議な人がいて有史以前とか、はるかかなたの記憶があると言う人や、物にさわって記憶を感じる人達がいるらしい。 テレビモニターという考え方からすれば、全てのもの、つまり、植物、動物、鉱物、地球そのものも情報を蓄積し尚且つ電波のように放出しており、要は、受信機側(受像機)が放出する情報の周波数を受け止められるかどうかが記憶だというのだ。

アフリカに来て以来、歴史を創ってきたのは、直接的な情報の伝達ではなく、一匹のねずみが学習した目に見えない情報が他へ共鳴し受信された結果、近代化と呼ばれる創造に結びついてきたと私は直感している。個人の情報の蓄積は、地域の情報の記憶であり、地域の情報はその土地、風土に共鳴する。そして、土地、風土の歴史蓄積を持った個人が、別の土地へ移動、移民し、周りの人種、宗教にかかわらず、かなりの割合で親から子へ伝達され新たな歴史が創られる繰り返しだったのではないだろうか。歴史の記憶を歴史の厚みと言い換えれば例えば中国は中国の歴史の長さがそれ自体、歴史の厚みであり、アメリカは各移民者個人が持つ歴史の厚みの集合体といえる。国として歴史の浅いアメリカ合州国が何故世界で力を持ち得たのか、単に移民の国だからという理由だけでは説明できない。アフリカの黒人の国に住むヨーロッパ白人文化などは具体例だと思う。また、ロシアなどは自然条件のきびしさの中に生活が存在してきた事自体が歴史の厚みである。また南アフリカは過去の白人対黒人の構図が現在の厚みになっている。将来この国での歴史の厚みになり得る事としてAIDSの究極の蔓延が考えられる。しかし、真に悲惨な状況になるまで人々は悲観する事はないであろう。

今、ここマラウイという土地に住んで思う事は、自然条件に恵まれて仮に日々の生活に追われたとしても、貯えもし、将来を予測、計画する必要がなかった程、地の恵みがあったことである。だが、世界は変化し続ける間に累々と続いてきた社会は発展途上国と呼ばれ最貧国の一つに数えられるようになってしまった。この土地の歴史は先進国が蓄積した歴史の共鳴を必要としなかったのではないか、つまり、天変地異の自然条件、災害、イギリスの植民地支配も含めて全ての変化を歴史の厚みと呼べば、マラウイはきわめて薄弱なものしか蓄積していないのではないかという気がする。実際に他の周辺国が過去十数年、経済的苦境を経験しながら、社会状況を好転させる努力をしてきた間、マラウイは、政治変革が生じる前は南アフリカからの援助、その後は日本を含め先進国からの援助で現在まで至り、いわばぬるま湯の中に浸り国全体が傾き続けてきたのである。先進国の発想を是とし、先進国がいくら援助しようとも歴史の厚みを前提としない援助は全てむだに帰する可能性を秘めていると推測する。

枠を拡大して考えてみたい。人間といわず生物の最終目的が自己のDNAの保存であるなら、科学技術の進歩による宇宙での保存と進歩に相反する状況での保存の二極化が考えられる。 農作物の収量を上げるために育種で創られた単一種はいつか大災害が起きれば一度に全滅してしまう要素を常に含んでいる。最終的に宇宙をめざす西欧中心の同方向を向いた近代化も然りである。その意味で、もう一方の選択肢としてマラウイは人間のDNAの保存と地球という環境の安全装置(セーフティーピン)のように成り得る気がする。つまりマラウイ社会が象徴する他のねずみの芸に共鳴しないという安全装置をはずしたら破滅まで行き着くと私は想像している。人類が大地溝帯から生まれたと仮定するなら、未来に最後まで生き残るのも大地溝帯の国マラウイかもしれない。


by nshimaafrica | 2011-02-11 08:19 | ★溜まった妄想 | Comments(0)


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