りんごの収穫が近くなると、どこからともなく冗談っぽい人間が現れた。5、6人の集団で夏期剪定を進めていると、ある時から突然見たこともない白人やメキシコ人が加わっていたりした。アメリカ人の白人の場合、働いてみて思ったよりも条件がわるい、割に合わないと判断すると2、3日の間に辞めるのが普通だった。出稼ぎのメキシコ人の場合は、メキシコに米ドルを持ち帰った時のことを考えているのか多少条件がわるくとも、働ければいいと割り切っていた。すぐに辞めることはほとんどなく収穫終わりまで続けるのが一般的だった。
ある日、農場敷地の端に黄色の大きなスクールバスが止まっていることに気がついた。煙突が外側に飛び出しているバスがあるとは珍しいと思った。次の日、頭がツルツル坊主頭で年配の男性と髪の長い十代の若者、二十代前半と思われるが普通だが一見汚そうに見える別の若者の3人が夏期剪定に加わった。どうも親子3人組らしく昨日見た改造スクールバスで移動しながら仕事を探しているようだった。坊主頭の親父は海軍で日本へも行った事があるようなことや、瞑想しながら働くと何時間働いても10分ほどしか感じないなどと言っていた。二十代前半の若者は俺よりも年上で結婚していて、妻がスクールバスの中で家事をしているとの事だった。これはまさしくヒッピー崩れの親子だった。
白人のアメリカ人が果樹園で働く場合、地元の人間や高校卒業したばかりを除くと新しい労働者は必ずそれなりの雰囲気を持っていた。東部の大学を卒業後、フォルクスワーゲンのバンでインディアナ州からアラスカまで行き、帰りにワシントン州で一稼ぎしてから東部かカリフォルニア州まで行こうとするカップルもいた。当時でも70年代カウンターカルチャーの雰囲気がまだどこかしら残っていた時代だった。No Nukes も下火だったが、充分その辺の話を聞くことができた。まだまだ誰かがギターを弾き始めると必ずニール・ヤング Neil Young が出てくる時代だった。
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