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2019年 01月 19日

辺見庸『こころの時代~宗教・人生~「”在る”をめぐって」』


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血まみれの惨劇に染まっていない人間はいない。

さとくん以外、何故生まれてきたなどと不躾な質問をする者がいない。

きーちゃんにとって「在る」「無い」はどちらでもいい。

きーちゃんとさとくんは、感情がむき出して合致した。

優生思想は当事者になっていない。皆、その外にある。
辛さの飛沫を浴びることはない。

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存在は哀しい。つまりわからない。善悪を持ち込めない。

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想念が存在を自由にする。

静けさの向こうに死の世界がある。それを了解している。
確実に「消失」nowhere が迫ってくる。

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さとくんときーちゃんは同じ。

宇宙を存在させる「弱い力」がさとくんときーちゃんを創り上げた。

「与死」--殺してしまうこと。終末医療の考え方。
国家が人の死を決定していいのか。「与死」を我々は肯定してしまっている。
死刑は、ある意味で反対なき殺戮である。

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「在る」は、意味、意義がない。しかたがない。安倍も天皇も皆もそうである。

「在る」なら「こうしなければならない」とするのが、国家の考え方である。

存在物に意味を強要や剥奪をしてはいけない。

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言葉が気持ちわるくなっている。言い逃れを認めてしまうこの社会が気持ちわるい。

最も弱い物の声を聞くことは、宇宙の残響を聞くことかもしれない。

さとくんを正当に反論するなら、死刑にしてはいけない。

朝の夜露の美しさは、さとくんから出てきたものかもしれない。
血飛沫かもしれない。



by nshimaafrica | 2019-01-19 21:04 | ★映画、テレビ | Trackback | Comments(0)
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