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カテゴリ:USA以前、1980年迄( 27 )


2018年 06月 05日

夏の終わりと冷麦

夏休みも終わる頃には、すっかり自宅にいるお気楽さが当たり前になり始めていた。

市内の下宿先へ戻りたくない重い気分だった。
たぶん里心みたいなものだったのだろう。
東京の大学から夏休みで戻っていた兄よりも先に家を離れなければならないのも重なっていた。

高校の2学期の始まる前日の夕方、両親が田舎から市内までトラックで送り届けてくれた。
何故両親が揃って一緒に来てくれたのかその理由がよくわからない。

すっかり暗くなり、ちょうど夕食時だったので、下宿先に戻る前、夕食を済まそうということになった。
近辺の蕎麦屋かラーメン屋みたいな所に入った。本当に珍しい出来事だった。
外食などほとんどしたことがなかったせいかもしない。
「冷麦」を食べたのをはっきり記憶している。
冷麦しかないと言われたからかもしれない。

未だにその日の夕方の暗い景色と「冷麦」のことが頭から離れない。

白い麺の中に朱色っぽい麺が2、3本混ざっていた。

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by nshimaafrica | 2018-06-05 21:44 | USA以前、1980年迄 | Trackback | Comments(0)
2018年 05月 30日

また高校の頃 

高校の頃、下宿していた場所は、歩いて駅まで10分、高校まで自転車で10分くらいの近さだった。
現在、下宿屋はとうの昔になくなり、そのかわりにマンションが建っている。
その周辺の変化に気がついたことについていつかは思い出せない。
たぶん1980年代の初めぐらいだったかもしれない。

かつては、酒蔵があった土地だったらしい。廃業して残った家屋を利用して下宿屋が営まれていた。
土地の名義人だった下宿屋の爺さんが、連帯保証人の判子を押していたがために、
突然一夜にして全ての財産を失ったと聞いた。

大学を卒業し、下宿屋のおばちゃんに会いに行こうとしてわかった事実だった。
下宿屋のおばちゃんは、市内の外れに借りた一軒家にサラリーマンをする息子と住んでいた。
訪ねるとすぐに、線香をあげてくださいと言われた。
爺さんはすでにこの世になく黒い額縁の写真に収まっていた。

地元企業に勤めるサラリーマンが、台所の2階にある4畳半に一人、
一旦玄関を出た離れの住宅にサラリーマンと高校生。
汲取式便所すぐ脇の3畳の部屋に高校生が一人、
道に面した1階がポーラ化粧品事務所の2階のうなぎ部屋に高校生が2人。

計6人だった。下宿と言うからには、当然夕食付きで、毎晩、台所脇の部屋で、
テレビを見ながら一緒に食事をした。

田舎の県で、そのまた田舎から出てきた俺にとっては県庁所在地でも十分何もかもが新鮮だった。

下宿した当初、毎週末田舎へ帰っていたが、当たり前だが次第に慣れてくる。
夏が近づき夜になっても寒くならなくなると、木造の窓の格子を彫刻刀で外して、屋根をつたって外へ出た。
化粧品事務所の2階の二部屋は、トイレへ行くのにも必ず母屋を通らなければならなかったからだ。

誰にも知られず自転車置き場へ行き、自分のを取り出す。

土曜の夜、市内をあてもなく走り回った。


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by nshimaafrica | 2018-05-30 10:11 | USA以前、1980年迄 | Trackback | Comments(0)
2018年 02月 10日

気が向いたらスキーを

東京の大学へ入学してすぐに「旅行が好き」みたいな同好会へ入った。
夏場はあちこちと貧乏旅行したが、冬になると何もすることがない。
と思っていたのは雪国の片田舎出身の俺だけだった。
年末はスキー場で年を越す予定などという都会出身者もいた。
それまで雪国で生まれながらスキー場でスキーなどしたかことがなかったのだ。

子供の頃、冬と言えば、貧弱な暖房の家の中で丸々と着ぶくれし、
外へ出るときは、底に稲わらを詰めたゴム長で歩き回っていた。
雪が積もり出すとガキどもは家の回りある坂を利用して、
かかとの上がる安物のスキー板で滑っていた。
転ぶたびにゴム長の中へ雪が入った。

大学1年の時に生まれて初めて長野の水上スキー場へ行った。
ゲレンデで滑る意味を知った。
もちろんすぐに滑れた。だが心の底から楽しめなかった。

旭川では娘のために近くのスキー場へ何度も行けたのは車が足がわりだったから。
残りの半分は義務感からだった。
もちろんそれなりに楽しかったが。

今、札幌市内に住んでスキー場へ近いのだが、全くその気にならない。お金もかかる。
街へ行けば、東南アジアや中国からの観光客を見る。
スキーをしに、ただ雪をみるために。
通り過ぎる分には雪も楽しいのかもしれない。

そのうち気が向いたら、ニセコと言わずとも「札幌国際」へでも行ってみよう。

最後にスキー場へ行ったのはニューメキシコ州だったから15年前になる。


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by nshimaafrica | 2018-02-10 09:25 | USA以前、1980年迄 | Trackback | Comments(0)
2018年 01月 15日

煙草と冷たさの感覚

部屋の中にいれば寒さもあまり感じない。外は雪とガチガチの氷の世界。

子供の頃、家の中に貧弱な煙突のない換気の必要なストーブ。
あかぎれとしもやけが絶えず、指の節目がひび割れて血がいつもにじんでいた。
碌な暖房などなかったのに寒さをキツく感じた記憶がない。
忘れてしまったか、寒いのが当たり前と思っていたのかよく思い出せない。

ただ煙草を吸うようになってからは、剪定の時期など雪の上では爪先が悴んでじっとしていられなくなった。
我慢できなかった。
毛細血管が細くなり血行がわるくなっていたのだろう。今では常識になっていること。

当時つまり大学生の頃、東京の下町に住む親戚の医者にこの事を尋ねてみた。
煙草を吸うたびに手足が冷たくなるように感じると。
だが、そんなことはない、気のせいだと言った。

自分自身は缶ピースを吸っていたのに何も感じないのかと素朴に思った。

後日、煙草と毛細血管の収縮が周知の事実になった。
それから、この親戚が何を偉そうなことを言っても、心から信用する気にならない。
本当の意味での皮膚感覚が鈍感な人間が、自身の生理的な感覚を自覚できないのは、
これはちとまずい。

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by nshimaafrica | 2018-01-15 10:51 | USA以前、1980年迄 | Trackback | Comments(0)
2017年 10月 07日

サント・ヴィクトワール山からバングウェル湖の湖畔まで

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子供の頃、掘りごたつで足を火傷したころだった。
たぶん、4歳か5歳かその頃だろう。
家はまだ茅葺の屋根で建て替える前だった。
田舎の話だ。

黒い板の壁に山の絵が貼ってあった。
薄暗い古いタイプの間取りだった。
誰がカレンダーの写真なぞ貼ったのかよくわからない。

今から思い出すと間違いなくセザンヌの「サント・ヴィクトワール山」だった。
使い古したカレンダーの絵を切り取っていたのだろう。

知らずに見たこともない景色が頭の中へプリントされ、そのまま静かに沈んでいった。
家の周りの山と似ても似つかないのに、
原体験のような錯覚を持ってしまった。

小中学校くらいの記憶か。ずっと新しくなる。
リンゴ畑の小屋にカレンダーの風景写真が数枚貼ってあった。
母親が貼ったのだと思う。
ヨーロッパのどこかだった。イタリアかスペインかドイツかギリシャか、
どうであれ遠い国の風景に思いをはせたのだろう。
生きずらい田舎の現実から離れるための、
絶好の清涼剤か小道具になったはずだ。

1985年頃か。
サンビア、バングウェル湖の湖畔に建っていたゲストハウスの中に
ノルウェーのフィヨルドの大きなポスターが数枚貼ってあった。
たぶんノラド(NORAD)の連中が置き土産に置いていったのだろう。

ザンビアにいながら、はるか彼方の北欧がすぐ目の前に広がる錯覚がした。



by nshimaafrica | 2017-10-07 08:40 | USA以前、1980年迄 | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 26日

汽車も通らぬ片田舎だった

覚えていることを書いておこう。

生まれた場所は汽車も通らぬ片田舎だった。

遠くから次第に聞こえ始め、家の前を通り過ぎそして遠ざかっていく車の音。
車はたまにしか通らなかった。

遠ざかる音から自分の中の記憶が始まる。
そして、どうしてこんな所にいるのだろうという事。
また「始まる」という意識だ。

別のシーンでは、男が部屋に入ってきたコウモリを棒か何かで追い回して追い出そうとしている。
男はたぶん親父だ。

夜中に父親と母親が起き出し布団の上をピョンピョンと飛び回る蚤を必死になって捕まえようとしている。
やっと捕まえると親指の爪と爪の間に蚤(ノミ)を挟んでつぶすと血が吹き出す。たぶん、夏だ。
シーツの下に蚤避けの白い粉末を撒いている。

小便を催すが、家から一旦出て便所へ行かなければならない。
面倒で2階の窓からすると、屋根を伝って流れていった。

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by nshimaafrica | 2017-07-26 00:21 | USA以前、1980年迄 | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 14日

仏壇の水晶

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小学校低学年の頃、祖父の弟つまり大叔父と一緒に近くの河原へ散歩に出かけた。
日が暮れる前、辺りが薄暗くなりつつなる夕方だった。
河原の丸い形の石の中に、半分だけ埋まったやけに角ばった透明な石を見つけた。
すぐに珍しい石があることを大叔父へ伝えた。
大叔父は、表情を変えず何事もないように石を掘り出して、何も言わず家に持ち帰った。

数十年ぶりに訪問した。
大叔父の家の仏壇に大叔父の写真とともにそれが飾ってあった。
事実を知るのは大叔父だけだった。
2年前、大叔父の息子つまり従叔父も亡くなってしまった。
水晶の出処も一緒にお墓の中。
もちろん、またいとこは知るはずもない。

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by nshimaafrica | 2017-07-14 18:05 | USA以前、1980年迄 | Trackback | Comments(0)
2017年 06月 29日

大学の頃:1976年~1980年

写真は2016年12月撮影
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高校からエスカレーター式に大学へ入ったので、およそ受験勉強などと無縁だった。
高校も幻滅したが大学も同じだった。かといって大胆な行動もとれないほど未熟だった。
どうせ動けないのであれば、学生生活を楽しまねばと思った。
根性云々や体育会系の輩の輪に入るつもりなどさらさらなかった。
いかに旅行を安く楽しむかの趣旨の同好会に入った。
主に信州プラス東側、大雑把に東日本だが、気に入った連中と色々な場所を旅行した。
当然、旅館、ユースホテスルなど全く縁がなく、石油コンロを使った自炊とテントを担いで旅費を節約した。
かと言ってしんどい旅行は嫌だった。バイトで小銭を稼ぎ、仕送りを節約して、
夏山登山というか信州や東北のハイキングを大いに楽しんだ。冬は無人駅などに泊まった。
しかしながらそれも次第に飽きがくる。
大学3年の時に同好会から抜けてしまった。
不摂生もたたり、午前中に起きられず、必修科目の講義に間に合わなくなるような生活になった。

当然のことながら将来のことを考えると自然に不安が徐々に膨らんできた。
好きでもない学科を卒業してすぐに就職はしたくはないと心の底から思っていた。
加えて世間擦れしなさ過ぎて、就職できたとしても世の中に適応できないであろうことは明々白々だった。

高校の頃に考えていたことを振り返ってみれば、元々、海外へ行く理由付けのために選んだ学科だった。
ガキの頃から、ひたすら海外へ行きたいと夢見ていた。お金を使わないで。
それだけは変わらなかった。

思い付きで、広尾の青年海外協力隊本部の説明会を聞きに行ってみたこともあった。
当時の説明会会場には当時、いかにも帰国したばかりに見える協力隊の若者が屯していた。
雰囲気のある無精髭を伸ばしたような帰国者連中が、
一時的に広尾訓練所で寝泊まりできる場も兼ねている様子だった。
一目でビビってしまい、すぐにとてもとても協力隊など無理な道筋だと思いこんだ。

思い悩んでいたところに、兄が「派米農業研修生」としてアメリカへ行くとの話が田舎から入ってきた。
当時、一銭もお金がかからないとの事だった。
後から考えば、それをアメリカの農場で自分で稼ぎ出すのだから、当たり前といえば当たり前だった。
兄貴が行けるなら自分が行けないはずがない、
迷わず、同時にとりあえず卒業後の進路を決めることができた。
規則正しい生活を始めた。



by nshimaafrica | 2017-06-29 00:03 | USA以前、1980年迄 | Trackback | Comments(0)
2017年 04月 23日

黒猫とコロッケ


a0183811_16270819.jpg記憶が辛うじて残る3歳か、4歳頃、家で黒猫を飼っていた。かわいいと思ったことは一度もなかった。真っ黒過ぎたのかもしれない。眼の輝き以外に記憶に残っているのは、ネズミを捕まえてきては、板の間か土間で必ずお披露目をしていたこと。爪とぎで硬い部分を残して傷だらけで掘り起こされていた木製の襖。

黒猫は突然いなくなった。いなくなった次の日の夕食にコロッケが出てきたことをはっきりと覚えている。婆さんが作る料理でおいしいと思ったことは一度もなかった。その日のコロッケが珍しく旨かったのを覚えている。何故その日にコロッケがでてきたも未だ不思議である。何十年も経ってから兄にその日のことを尋ねた。同じようにはっきりと記憶していた。


by nshimaafrica | 2017-04-23 16:32 | USA以前、1980年迄 | Trackback | Comments(0)
2017年 04月 03日

1977年の秋、大学2年の学園祭でもらったパンフレットを思い出した

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昨日、いつもの散歩コースで休むためにある施設に立ち寄った。
入り口に「ホピの朗読会」みたいなことが書いてあった。
興味もあったが、予約制、有料ではないか。
さらにほとんど終了時間だった。

何気なく過去の記憶を辿っていく。

1977年の秋、大学2年の学園祭に見たスライドショーだったのか映像だったか正確に思い出せないが、
その時にもらったパンフレットのことを思い出した。
今も部屋のどこかにあるはずだ。

時期と内容に間違いはない。
ホピ平和宣言だったと思う。
印象が非常に強く、その時の英語の文章にも興味を持ったのを記憶している。
ネットで調べてみると内容は当時と同じようだが、何故か印刷された年月が全く異なる。
たぶん旧訳だったのかもしれない。
確か「真崎義博」の名前もあった気がするが定かではない。

当時、読んでいた古本の「宝島」のことも思い出した。
連想で「北山耕平」、「亀の島」、「ゲイリー・スナイダー」、
「カルロス・カスタネダ」(嘘話だっらしいが)、
「知覚の扉」、「ハックスリー」等、ほとんど忘れかけていた記憶の破片が少しだけ戻ってきた。


by nshimaafrica | 2017-04-03 16:47 | USA以前、1980年迄 | Trackback | Comments(0)