人気ブログランキング |

nshima.blog

nshima.exblog.jp
ブログトップ

<   2011年 04月 ( 31 )   > この月の画像一覧


2011年 04月 30日

丸山健二を初めて読んだのは、大学2年、夏の終わりだった

a0183811_23581028.jpga0183811_23581880.jpga0183811_8295619.jpga0183811_8421393.jpg


丸山健二を初めて読んだのは、大学2年の夏の終わりだった。残暑がきびしい年だった。実家が田舎なので一番近い隣町の本屋へ行くのにバスで30分を要した。ほとんどが週刊誌、月刊誌しか置いていない小さな本屋だった。多少文庫本が並んでいたが、その冊数もたかが知れていた。その中で「薔薇のざわめき」「明日への楽園」「穴の海」のなどという文庫本を偶然見つけた。タイトルが気に入って、「薔薇のざわめき」を手にとって数ページをめくってみた。文節が短く、よけいな描写がなく、尚且つ映像が目に浮かぶような文章に夢中になり、すぐに虜になった。それ以来、好きな作家は丸山健二、マルケンのまま三十数年変わっていない。

短編の名手、同時に丸山健二の小説は寓話であるなどと言われていた時期がかつてあった。寓話云々については、勘違いも甚だしいと思ったものだった。小説としているが、実は「田舎」のノンフィクションではないか、田舎の、現実の生活で起きていることを小説仕立にしているのではとさえ思った。後に、批評、評論を書いているのは、都会生活者で田舎のことなど何も知らない連中であると確信した。「私だけの安曇野」に至っては、安曇野という地域名の部分を替えたら、まさしくこれは自分の田舎そのものだった。実は日本の田舎の過去、数十年は、広く「安曇野」だったのではないかと想像した。たぶん、文学云々について拒否反応を持つ丸山の視点は、元々気恥ずかしさなど無用な本能から発する視点であり、だからこそ極めて正確に田舎を観察できたのではないかと考える。裏返しとして評論家その他の連中は、同じ日本に居ながら、田舎の視点など微塵も持たず誤解し、一見高尚ぶった戯言を言えたのかもしれない。

小説の本質に関係なく大したことではないのはわかるが気になることがある。些細なことだから誰も指摘しないであろう。農家のことや農作業の描写が出てくると、明らかに勘違いしている部分、誤って理解している部分が必ず何箇所かある。それを指摘できる農家の連中が丸山の文章を読むはずがないだろうし、また丸山健二がそんな農家とつき合うことなどあろうはずがない。

丸山健二は、常に変化し続けている。初期の切れのある文章から読む側のレベルを試すと豪語するぐらいに変わっている。かなり昔の作品で「ぶっぽそうの夜」などは、物語始めから半分まであまりに見事と感じた分だけ、結末への収束の仕方に絶句してしまったことがあった。時々ついていけなくなることを承知で毎度の新作を楽しみにしている。

More

by nshimaafrica | 2011-04-30 00:01 | ★音楽、本、DVD | Trackback | Comments(0)
2011年 04月 29日

ナミビア2 :1997年8月~2000年9月 砂丘、送電線、大西洋 Nambia

a0183811_021885.jpg

朝早く起きた。砂漠での行動は10時までが限界と聞いていたので出発も早かった。

道の両側は見上げるほどの高さのある砂山に変わっていった。道路の表面は固い。ソススフレイの駐車場まで来ると、既に先に到着した車が何台も駐車していた。

砂山の方向へ歩いて行った。次第に音の感覚が変わっていった。音が吸収されて口から発した音が耳まで届きにくくなっている。つまり聞こえにくくなっているのは驚きだった。また、砂を掘り起こすと、ひんやりとして少しも暑く感じなかった。

3人でゆっくりと砂の稜線を歩いて行った。空の色と砂漠の臙脂色が対比を成し、生まれて以来、今までに経験したことがない世界が目前にあった。砂山の高い所まで来て見渡すとどこもかしこも砂原で際限なく続いていた。

緯度が高くなるに従い、光は明らかにシャープに変化する。同じように、砂漠でも光の質のようなものが違っている。光が眼に突き刺さるようだった。



ソススフレから海岸のウォルスビーをめざした。ウインドフックと海岸へ向かう道の分岐から車の数が極端に減った。対向車が全くなかった。両脇に家など皆無だった。150km以上の直線道路だった。道路の両脇に広がるのは砂漠でなく砂のない沙漠だった。月世界とはこのような景色なのではないかと思わせるものだった。妻は、ここで車が故障したら大変なことになることは間違いないと言った。

道路の高低差以外、何も変化なく本当の直線だった。高速で走っていると知らぬ間に少しだが何回もジャンプした。地図から大体の距離を検討し、そろそろ海岸に近くなってきたと思ったら、周りに砂の量がたちまち増えてきた。目の前の景色がまた砂の原へ急に変わった。送電線が海に向かって砂の上を延びていた。砂と送電線が目の前に次から次へと展開した。映画の中の一シーンにいるのでないかとも錯覚しそうだった。右手に砂に埋もれたよな家が次々と見えてきた。安部公房の「砂の女」の風景とは、このような景色ではなかったかと想像するうちに、やがて大西洋の青が見えてきた。

いい気分だった。そして大西洋の海岸線の道路に入った。



ウォルスビーを通り越してスワコブムントで投宿した。海流が冷たいせいだろうか、雲が発生しがちだった。次の日、ウインドフックへ向けて出発し、スワコブムントの町を振り返ると、その上空だけが雲に覆われていた。幹線道路を通りウインドフックに戻った。数日で走行距離が1500kmになった。幹線道路以外は全てラフロードだった。

ナミビアほど強烈な印象を持った旅はない。

a0183811_024187.jpg


More

by nshimaafrica | 2011-04-29 00:07 | ★溜まった妄想 | Trackback | Comments(0)
2011年 04月 28日

アメリカ:ワシントン州オロンド3 足音 1980年~1982年 Orondo, WA, U.S.A.

写真は2002年、加工
a0183811_020162.jpg

トレーラーハウスには一人で住んでいた。居間、トイレ、ベット付き部屋が2つ付いていた。一番奥の部屋を使っていた。不便はなく必要なものは全部揃っていた。さくらんぼの樹に囲まれていて一番近い家はボス宅で40~50m離れていた。同じ生活パターンで夕方6時まで毎日働いていた。冬の終わりかけだった。

シャワーを浴びてベットに入ったのは夜10時過ぎぐらいだったかもしれない。疲れているのに、その日だけ頭がはっきりしていた。部屋の明かりを消して真っ暗にしてからどのくらい時間が過ぎたのか全くわからなかった。

最初はトレーラーハウスの近くを誰かが通る音だと思った。そもそも誰も近くを歩く人がいるはずもない、まして夜の夜中に。ヒタ、ヒタとちょうどゴム長を履いて水を引きずっているように聞こえた。遠くからのヒタヒタ音は、ちょうどトレーハウスの脇で大きくなりまた離れていくと思われた。が、その足音はトレーラーハウスの横から聞こえてきた。建物を回り始めたように感じた。その瞬間に凍りついた。本当に人がいるのか、窓から外を見ればいいだけのことだったが、恐怖で全然体が動かない。毛布を頭から被り一刻も早く終わってほしいと願うだけだった。毛布から顔を出したら恐怖で死んでしまうのではとさえ思った。頭が痺れた状態だった。気を失ったに近かったかもしれない。

後からこのトレーラーハウスに纏わる話を聞いた。数年前あるメキシコ人が他のメキシコ人から恨みを買い、体中三十何箇所か刺されこのトレーハウスで殺されたとの事だった。本当にあったことらしい。

あの後、奇妙なことは何も起きなかったし、気配も感じなかった。だが、今尚あの夜のことはとても錯覚とは思えない。あれほどの恐怖を未だ抱いたことはない。


More

by nshimaafrica | 2011-04-28 00:25 | 派米農業研修生(USA) | Trackback | Comments(0)
2011年 04月 27日

ナミビア1:1997年8月~2000年9月 砂の轍 Nambia

a0183811_1843599.jpg
a0183811_18434328.jpg
a0183811_18431914.jpg
砂漠から戻った後のウインドフック
a0183811_0125660.jpg

1999年4月、マラウイのリロングウェからヨハネスブルグ経由で首都ウインドフックに到着した。派手な装飾もなく空港は極めてシンプルな作りだった。他のアフリカの国と比べ明らかにインフラが整っているのが空港の周りを見るだけで察しがついた。白人支配の長い国は、一見ジンバブウェと同じように独立後しばらくの間、インフラの維持管理が続くようだ。だが、内在する様々な人種間の問題などが少しずつ明らかになるに従い、統治能力の限界が露呈しボロボロになっていく。ジンバブウェのロバート・ムガベなどがその典型であろう。現在のジンバブウェの経済状態からすると1984年当時の経済状態が夢のようである。過去の負の遺産を清算した結果で現在に至ったとするにはあまりに哀しすぎる。明らかに現実的な統治の失敗が原因であることは明らかだ。ナミビアのような国の場合、これからどのような運命をたどるのだろうか。そして日本は、どうなっていくのだろうか。



何年経ってもふと思い出すことが今もある。首都ウインドフックのレストランで食べたドイツ料理が信じられないほどまずかったことか。注文した皿の分だけどうしたらこんなまずい味付けが出来るのかと思った。もしかして本物のドイツ料理が基本的にまずいのでは、とさえ思えた。娘も妻もやはり、かなりまずいと感じたらしい。店構え、評判もまあまあだったはず。



2日目、レンタカー会社で日産の4シーターの4x4ピックアップを借りた。4x4でなくては無理だと言われたからだった。スペアタイヤ2本と予備のガソリンタンクが標準装備になっていた。早速、南へ向かい砂漠をめざした。

幹線からはずれると、グレーダーで表面を削って平らにしただけのラフロードだったが、平気で快調に時速90km以上で走ることができた。それでも、道路上には至る所に拳以上の大きさの岩や石がごろごろとしていた。

車はほとんど走っていなかった。角度によって輝く岩山と強烈な光線が降り注ぎ、場所によって丈の低い銀色に見える草原が広がっていた。運転することに、ここまで強烈に、快感に感じたことは、未だかつて無かったような気がする。

砂漠の中の一軒家のゲストハウスに到着したのは午後3時くらいだった。
4時過ぎ頃から急に強風が吹き始めた。全てのドア、窓がガタガタした。30分ほど嵐が休みなく続いた。突然風の音が止むと同時に完璧な静けさに変わった。洋式の風鈴の音が風に乗って聞こえてきた。マカロニウエスタンの映画をふと思い出した。

夕方まで時間があったので、30分離れた公園入口の近くまで走っていった。途中から固い路面から次第に砂の道に変わっていった。気がついた時、あっという間に前輪が半分くらいまで砂に埋まりスタックしてしまった。タイヤが空回りし始め、その瞬間、体中の血液が頭に上った。妻と娘もピックアップから降りてきたが、俺がどれだけあせっているか全くわかっていなかった。間違いなく30分後には日が沈む時間帯だった。夕日に変わっていた。小学生だが大の虫嫌いの娘は、砂の中に虫を見つけて、怖い、怖いと大騒ぎしていた。それどころではなく、もう一度ピックアップに乗りエンジンをかけたが、タイヤが空転するだけだった。血の気が失せるとはこのことだった。妻から、どうして片方のタイヤだけ回るの?と言われて初めて、ハブロックしていないことに気がついた。前輪のシャフトの軸をロックしていなかった。

急に体から力が抜けていった。震える指でタバコを取り出し、ゆっくりと吸った。落ち着いてから前輪ホイル横の丸型レバーをOFFからONにした。エンジンをもう一度かけた。ピックアップは苦も無く砂の轍から抜け出ることができた。


More

by nshimaafrica | 2011-04-27 00:14 | ★溜まった妄想 | Trackback | Comments(0)
2011年 04月 26日

山が動いた話:1980年代 婆さんがまだ元気だった頃

写真は2007年8月
a0183811_027861.jpg

二十数年前、婆さんがまだ80何歳かの時、兄から聞いた話。

実家は河岸段丘の上にあり、反対側の川向かいの山が崩れてはげになっていた。大雨が降るたびに少しずつ崩れてくるので、禿げ一面に工事が施され一応の収まりがついていた。婆さんの眼がわるくなって見えずらくなったこともあったかもしれない。兄が昼休みに農作業から戻ると、婆さんが訴えてきたのだという。

山が崩れ始めた、禿げの周りの杉林が大きく動き始めた。直ぐに役場に連絡をしなければとの話だった。
兄は双眼鏡を取り出して覗き、はずしては全体を確かめることを繰り返した。兄もやはり山にへばりついた杉林が動き始めたと思ったらしい。電話ですぐに役場に連絡をした。まもなくして関係の車が到着した。婆さんと兄から事情を聞き、その後、川向の山へ土木関係者が現場調査に向かった。婆さんは疑いなく動いたと一人で断言していた。

1時間後、役場の連中が戻ってきた。調査したところ、以前の状態と変わりないようだ、とのことだった。婆さんは確かに山は動き始めたのだと言い続けていた。

もしかして本当に動いたのかもしれないし、妄想だったのかもしれないし、まれにここで必要な情報だったかもしれない。

More

by nshimaafrica | 2011-04-26 00:29 | USA以前、1980年迄 | Trackback | Comments(0)
2011年 04月 25日

LLW JNB LAX:97年, 98年, 03年 欠航でホテル BA, SA, NW

a0183811_011152.jpg
a0183811_0111773.jpg
a0183811_011978.jpg


これまでにマシントラブルが原因で飛行機が欠航になりホテルに泊まったことが3回ある。作り話ならよかったが。

1回目が1997年10月、マラウイ、リロングウェからロンドン行のブリティッシュエアウェイズのフライトで発生した。ロンドンへの出張だった。午後のフライトがマシントラブルで、南アから部品取寄せが必要になり、急遽市内のキャピタルホテル泊になった。翌日ホテル発10時で空港に到着するも、引き続き遅れ続け、結局リロングウェ空港にある機体への部品調達が不可能という結果になった。一旦、SASと書かれた機体の飛行機でヨハネスブルグへ移動して、そこでロンドン行フライトに乗り換えることになった。SASがどこの航空会社かよくわからず、どうも南ア航空から飛行機を借りたらしいことが後からわかった。リロングウェ空港を飛び立ったのは夕方で、眼下に南アの町並みが見えてくるとその明るさにに仰天した。1997年8月に赴任して、たった3ヶ月間でマラウイの夜に慣れてしまっていたことを改めて認識した。ヨハネスブルグ空港でブリティッシュエアウェイズの座席に座った途端、食事もとらず翌朝ロンドン到着まで目が覚めることがなかった。

2回目は1998年4月2日、南ア、ヨハネスブルグ空港からオーストラリアの西海岸パース行の家族でのフライトだった。マラウイのリロングウェからヨハネスブルグに到着し、南ア航空のトランジットカウンターへ航空券を差し出すと同時に、フライトは延期で今晩はホテルが手配するホテルに泊まってくれとの事だった。ホテルと食事のバウチャーが渡された。航空会社が用意したタクシーが、バウチャーに手書きされたサントン地区のホテルへ1時間くらいかけて連れて行ってくれた。ホテルのレセプションにバウチャーを見せたが、すぐには手続きが進まず、ロビーで30分程待たされた。同じ名前のホテルが2件あり、タクシーの運転手が間違えて上等なホテルの方へ我々を連れて来てしまったようだった。そのまま、そのホテル(The Oasis)でOKということになった。一日遅れたことよりも、久しぶりに上等な部屋に泊まれることが嬉しかった。3人で乾杯した。

3回目が2003年7月、健康診断のため家族での一時帰国途中に起こった。アメリカ国内に立ち寄った後、ノースウエストによるロスアンジェルスから成田行のフライトだった。待合室のロビーで案内のアナウンスがあり周りが急にざわつき始めた。マシントラブルが起こったようだった。今晩はホテル泊になり、明日のフライトに切り替えられる旨の内容だった。用意されたのはクラウンプラザホテルで食事、国際、国内の電話、マイレージポイントのバウチャーだった。別に急ぐ旅でもなかったので久しぶりのロスアンジェルス空港の乾燥した空気と閑散な雰囲気を味わった。

4回目があるとは思えないし、それに懲り懲りだ。

More

by nshimaafrica | 2011-04-25 00:14 | ★健康、病気、事故 | Trackback | Comments(0)
2011年 04月 24日

モロッコ:1986年1月 マラケシュのアメリカ人 Morocco

a0183811_112056.jpg


マラケッシュのジャマエルフナ広場でアメリカ人の男に出会った。名前は覚えていない。三十代半ばに見えたが定かではない。何故彼と話し始めたのかは覚えていない。ただ、奥さんも子供も交通事故でなくしてこれ以上何も失うものはないこと、とりあえず大麻を観光客に売って収入を得ていること、ここでは半年ほど生活していることなどを説明してくれた。誰であれ人恋しくてしようがなかった。人と話をしたくてしようがなかった。

買い物につきあってくれということで一緒に市場の中へ入っていった。始めは、冷やかしが目的だったのかと思った。だが、モロッコは革製品が有名だ、ヨーロッパの革はモロッコから来ているのが多いなどと言いながら、革製品を扱っている店へ入って行った。西部劇に出てくるようなウエスタンブーツを気に入ったらしくサイズを確かめた後、彼はすぐに買ってしまった。広場に戻ってからミントティーを飲みながら、靴を取り出した。どこで買ったのか、靴クリームを一生懸命に塗込み始めた。バカ話をしながら塗込みを繰り返して、元は素の革の表面だったのが次第にピカピカに変わっていった。早速履いてみて気に入ったのか、もう一度、市場の中へ入ってみようということになった。

10分位経ってから、彼はブーツを気にし始めた。足首を回そうとするし、踵を地面に押し付けたりした。どうしたのだと聞くと、何か変な感じで足が靴の中であたる、違和感があるとのことだった。そのまま歩き続けて30分くらい過ぎたあと、彼は突然言い放った。

もう我慢出来ないと。

ブーツに履替える前のサンダルに替え、ブーツを手に持って靴ずれを起こした足を引きずながら、購入先の革製品屋へ向かった。店に着くと、店主にこのブーツは縮んでしまったこと、履き心地が極めてわるいことの不満を述べた。親父はブーツをしげしげと見つめながら、ブロークンな英語で訥々と説明した。クリームを塗ってしまったようだが、本当は型が決まって後から塗るもの、最初に塗るべきではなかった、縮んでしまったみたいなことを言った。彼は途方にくれて、それ以上文句を言えなかった。

More

by nshimaafrica | 2011-04-24 01:02 | ★溜まった妄想 | Trackback | Comments(0)
2011年 04月 23日

ザンビア、ジンバブウェ、UK,モロッコ:メイフェアホテル1984年1月~1986年2月UK, Africa

a0183811_8464044.jpg

メイフェアが有名なホテルだということを知ったのは、後日、漫画のゴルゴ13の中でゴルゴが泊まったホテルだったからだ。自分でも漫画っぽいと思い笑ってしまう。1986年、当時、俺のような若者がロンドンのメイフェアのような一流ホテル??に2泊できたのは、それなりの理由があったからだ。当時の時代背景をぬきにしては説明がつかない。但し、どこのメイフェアか思い出せないが。

アフリカ、ザンビアでの2年間の活動が終わった後、4週間かけて好きなように寄り道しながら日本へ帰国することが許されていた。予め航空運賃は決まっていたので、少しでも安い航空券を購入しようとした。ザンビア、ルサカ-イギリス、ロンドン間よりもジンバブウェ、ハラレ-イギリス、ロンドン間の方が安かった。そのため、出発一ヶ月くらい前にテレックスでハラレの旅行代理店に予約を入れてから、一旦、ザンビアから一度隣国のジンバブウェまでバスに乗って陸路で国境を越え、ハラレの旅行会社を訪れ、ルサカ-ハラレ-ロンドン-成田行の航空券を購入した。ルサカ-ハラレ-ロンドンまではジンバブウェ航空、ロンドンから成田までは日本航空を選んだ(ルサカ-ハラレ間はザンビア航空だったかもしれない)。日本航空ナイロビ支店へ「航空券購入」のテレックスを送ったことでロンドンの宿泊ホテルを確保することができた。つまり、アフリカからロンドンへ上がってきて、成田へ向かう場合、ロンドンの2日分無料宿泊をサービスしていたのだ。山崎豊子「沈まぬ太陽」の主人公がナイロビ支店長だった頃の話である。

メイフェアに宿泊した時期は、1月末でヨ-ロッパで一番寒い季節だった。ザンビアからロンドン到着した途端、寒さで震え上がった。これはたまらんということで早速ロンドン市内でスペイン、マドリッド往復の航空券を買った。少しでも南へ行こうと思ったからだ。だがマドリッドでも寒くて、更に南のアンダルシアへ移動した。それでも寒くてアルヘシラスからモロッコのタンジールへフェリーでジブラルタル海峡を渡った。電車とバスでモロッコ中を2週間かけて周り、しぶしぶまた海峡を越えてアルヘシラス、マドリッド、ロンドンの安宿へ戻ってきた。そして翌朝、あのスペースシャトルチャレンジャーが吹き飛んだシーンを見たのだった。

その日、メイフェアにチェックインした。レセプションは完全に俺を見下していた。予約が入っているだろうことを伝えると慇懃無礼にカードキーを寄こした。部屋に入ると嬉しくて、バスタブに湯を満々にして存分に浸かった。もう外へなど行く気がせず飯以外は部屋の中でぬくぬくとしながら2晩を過ごした。忘れることができないホテルになった。

More

by nshimaafrica | 2011-04-23 00:56 | 1982年6月-Zambia | Trackback | Comments(2)
2011年 04月 22日

アメリカ: グランドサークル 2003年夏 The Grand Circle, U.S

a0183811_04393.jpg
a0183811_043167.jpg
a0183811_042317.jpg
a0183811_041696.jpg
a0183811_04911.jpg
a0183811_04184.jpg
a0183811_03538.jpg
a0183811_034547.jpg
a0183811_033711.jpg
a0183811_033042.jpg
a0183811_032355.jpg
a0183811_031566.jpg
a0183811_03828.jpg
a0183811_03085.jpg

ラスベガスでレンタカーを借りて、家族で10日間ぐらいをかけザイオン国立公園、ブライスキャニオン国立公園、グランドキャニオン国立公園北岸、レイクパウエル(レインボーブリッジ国定公園)、モニュメントバレー、メサベルデ国立公園、デュランゴ、シルバートン、グランドジャンクション、インターステート70号、15号線を通り、バレーオブファイアー州立公園、ラスベガスへと戻ってきた。

アメリカ:レインボーブリッジ国定公園2003年夏 Rainbow Bridge National Monument, U.S (2011年3月6日アップ)は、この旅行の一部


More

by nshimaafrica | 2011-04-22 00:05 | Trinidad の頃 | Trackback | Comments(0)
2011年 04月 21日

ザンビア:サウスルアングワ国立公園1985年 1998年10月 South luangwa, Zambia

a0183811_03846.jpg
a0183811_025858.jpg


サウスルアングワ国立公園を2回訪れたことがある。1985年に1回目はザンビア、ルサカから、2回目は1998年10月マラウイ、リロングウェからセスナで一飛びだった。標高が低いため暑く、ケニアのようなサバンナではなく低木の国立公園だった。
1回目はザンビア自体の経済が最低の時期で国立公園ロッジのプールの水が空っぽの状態だった。2泊3日か3泊4日かは忘れたが、乾季で気が狂いそうに暑かったことだけを記憶している。ルサカに戻った時あまりの涼しさに、もう二度とあんな暑い所に行くかと思った。

2回目は家族3人で新しくなったムフエロッジに泊まり、存分にサファリゲームを楽しんだ。ルアングワ川の側のプールは地下水で満たされ、娘と一緒にまるで日本の川で泳いでいるかのように気持よかった。

同じ象と14年後に再会することができた。1985年、鼻が途中から千切りかけてブラブラさせて死んでしまうだろうと思えるような状態の小象を見た。2回目の1999年に訪れた時に、鼻が途中から切れている象を昔見たが、まだ生きているのかどうかを試しにパークレンジャーに聞いた。まさかどうしてこの客がそんな事を知っているのかと思うような顔をしながら、今も元気だと答えた。鼻の切れたかつての小象は、十数年経ても確かに生きていた。大きくなっていたが、まだまだ大きくなりそうだった。

ロッジは、ルアングワ川へ向かったウッドデッキのステージを備えていた。妙な事が突然起こった。夜8時か9時頃、野生の気配に包まれた。そこにいた誰もが雰囲気の異様さを感じた。音はしなかったが、ステージの下には何百、何千頭もの水牛が移動していた。パークレンジャー達も今まで経験したことがないと断言していた。移動は1時間以上切れ目なく続いた。静々と物音を立てずに黒い影が次々とブッシュの中を動いていった。

幸運な出来事だった。

More

by nshimaafrica | 2011-04-21 00:08 | ★溜まった妄想 | Trackback | Comments(0)